第7話「のっぺらぼう 後編」

 薬売りの前に倒れる狐面のモノノ怪。しかし素顔を明かそうとせず、狐面だけにながら決してその「形」を明かそうとはしない。薬売りは「形」を得るため、お蝶の情念=「真」と「理」を、まるで芝居のように見せていく……。




 ストーリー自体はしっかりとしたロジックがあるんでしょうが、視聴者の視点によって色々な解釈の仕方があったエピソードでした。それでもすべての結末は、アバンのお蝶のモノローグ、

私だけの胸の内にあるあなた。あなたはだあれ?

に帰結していくのだと思うのですが。
 以下感想。




 薬売りに抵抗し、「形」を見せようとしない「実にめんどくさいモノノ怪」に対し、「お蝶の一生」と称し、薬売りは彼女の情念をお蝶本人と薬売りに「芝居」と言う形で見せつける。
 お蝶の母は、夫を早くに亡くし家禄をめしかかえられた。唯一の残された望みが、お蝶を武家の家の嫁にやる事だった。しかし、彼女がお蝶に向ける愛情は歪なものであり、本人の意思をすべて無視して、嫁になるためにふさわしい習い事ばかりさせた。もちろん、お蝶の意思は無視。
 幼い頃から母親が好きだったお蝶は、彼女に喜んで欲しい一心でそれを受け入れた。自分を偽り続けたまま、しかし心は常に自分を抜け出し空想の中に遊んでいた。
 そして母の念願叶って武家の嫁になれば、扱いはそこらの飯炊き同然。いてもいなくても変わりない。彼女のたった一つの救いは、台所の窓から見える小さな空だけ。
 母の願いを叶えるために道具になったお蝶。しかし彼女から抜け出した自分自身は、狐面のモノノ怪と恋に落ちていく。しかし、狐面はモノノ怪ではない。




 それを操っていたものがお蝶を家に縛りつけていた――それが「真」。
 母の歪みを受け止めようとして、歪んだ心にモノノ怪が取り憑いた――それが「理」。




「誰を殺した?」と薬売りに訊ねられ、母が自分の話なんてハナから聞くつもりもなかった事を知って、お蝶は「大人」として、自分がどれほど愚かだったかに気がつく。
「私、バッカみたい」
と言うのが彼女が気がついたセリフの醒めた言い方と来たら……。自分への嗤い、母への嗤い、などなど、全部詰まったそれはそれは冷たい現状認識。
 そこから、ようやく本当に今まで殺し続けていたのは自分自身だった事に気がつく。




「形」は、お蝶自身。モノノ怪は、彼女。




「形」「真」「理」の三つを得て、退魔の剣を解き放った薬売りに訊ねるお蝶。「なぜ、のっぺらぼうは自分を助けてくれるのか?」。
 救われたわけではない。モノノ怪に甘えて、彼女は自分をひたすら殺し続け、台所から逃げようともしなかった。
 しかし、「のっぺらぼうは恋をしたのだ」と。決して叶う事が無いと分かっていた、哀しいモノノ怪の姿。
 お蝶はそんなのっぺらぼうに涙と共に感謝する。「ありがとう。もう大丈夫」と。
 そして、佐々木家の台所に舞台は戻る。佐々木家の連中は相変わらずお蝶を飯炊きのように使っている。しかし、お蝶は窓から空を見て笑顔を見せる。
 彼女の夫が台所に向かってがなりたてる。しかし、台所にはもう誰もいない。




 ある意味で前作「化猫」同様、一人の女性が「家」から解き放たれるまでを描いたエピソード。その最大の違いは、のっぺらぼうの「恋」。
 報われない叶わない哀しいだけの恋が、最終的にお蝶を母親が作った自身の歪みから解き放った。今回の事件は、すべてあの佐々木家の台所の中で、お蝶さんの空想の中で始まり、そこで終わったのだろう。
 お蝶の自分自身を殺し続けた歪みにとりついたモノノ怪=のっぺらぼうは、狐面のモノノ怪を操って佐々木家一家を色々な方法で惨殺する妄想に耽っていた。そこから彼女が抜け出さないように=母親の愛を否定しないように、延々とそこで過ごし、理想の結婚を狐面と続けていた。
 となれば、一番気になるのが狐面の正体。彼が前編での祝言シーンで、多くのアヤカシ達が「お蝶さんを見守っていた」と言っていたからには、それはお蝶さんに近しい何かだったはず。
 例えばそれは、お蝶が子どもの頃弾いていた琴だったのかも知れないし、空想の中でついていた鞠だったのかもしれない。窓の外の梅の木の上にとまっていた鶯だったのかも知れない。
 自分を何かが見守っていた。そう知ったお蝶さんは、どこかで本当の自分で生きているはず。




 されど、最も考えたくないのが、全てが薬売りの一人芝居だった……というもの。狐面などいなかった。最初から最後まで、薬売りがモノノ怪を斬る為に芝居をしていたのだとしたら……。
 それはそれで、薬売りがそれだけ優しさが際立つというもので、まぁいいのかも知れません(笑)。