里中哲彦『まともな男になりたい』
読書マラソン2・四十八冊目。
- 作者: 里中哲彦
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04
- メディア: 新書
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以下感想。
「まじめ」を馬鹿にした面白主義が目立ち、一人前や覚悟と言った言葉が死語になりつつある近年、自分自身の役割と存在価値を顧みる「まともな男」はいないのか。まともな男になるための規範と教養を考える、という一冊。
これがもう、徹頭徹尾まさに「まともな男」の文章で半分関心半分苦笑。
もちろん言っている事は至極正しい。他者に生かされている事を理解し、教養を身につけ恥を知り、理想と現実の間に平衡感覚を持って生きる事はもちろん大切な事だ。
それは他者の無教養、無恥、俗物性を冷静に指摘する一方、自分自身もその一人である事を認めている事からも明らか。筆者もその事を指摘するに足る教養をそなえている事も、多くの文化人の書物の引用が多いところからも分かる。
けど、それで? という気持ちにもなる。
他者の問題をとりあえず批判しておいて、自分もそうである認めるのは潔いが、それはある種の逃げの一手だ。
つまり、「じゃぁお前はどうなの?」と訊ねられた時、「その通り、私もです」と言っておけば公平に聞こえるからだ。
むやみやたらに文化人を尊敬してその思想に賛同し、その文章や言葉の興奮や感動をわざわざ本にして伝えたがる。福沢諭吉を妙に引き合いにだしているけど、「その人お隣の国では嫌われてるらしいですよ?」と伝えたくなる。
自分も俗物であると認めるなら、文化人の問題発言だって文章に起こせよ。文化人はただ著名な作品と実績を残してるってだけで、ただの死んだ人間です。他人の文章に「恥」を感じた、醜悪であると紹介してその理由を書くのもいい。でも、そういうのも文章です。ここで行使しているのは、明らかに悪口を言っていい権利=表現の自由だ。
結局、自分の都合のいい「まともな男」像に説得力を与えるために都合のいい言葉を並べ立て、敵を作って攻撃して、そして自分は謙虚に振舞っているものです。
だからこれは、哀しいくらい「まともな男」の文章です。安心して下さい。
とどのつまりは自分のこれもと逃げの一手で。