『仮面ライダー響鬼』三十一之巻「超える父」

 突然逃げては現れるカシャ。アクションシーンに前触れ無く挿入される日常パート。延々と引き延ばされる要のシーン。自分は555を見てるわけじゃないんだけどなぁ……。


 これまでの「肯定も否定もせず、存在する事を認めた上で判断をゆだねる」響鬼のスタンスから「否定して、押し付けて、それに流される」井上脚本スタンスに流れが変更されたせいで、ちっとも響鬼を見てる気がしなかった。


 しかしそれは横に置いといても、京介というキャラクターの存在は、極めてうっとおしいと同時に重要な事が分かった。これまでの煮え切らなかった明日夢に、ぴしゃっと同年代で話せる人間の存在は必須だったんだな、と。ああいう、感情を押し付けてくる相手が。
 消防隊員だった父親を火事で亡くしたせいで、父を超える事ができない。その代償として色々なジャンルの人に勝負を挑む……。と言うのは理屈としては分かるけど、これまでの抽象的な心の弱さの克服を自身を鍛える事に求めていた事と比較すれば、やっぱり安直に見える。京介自身も「自分なりに鍛えてる」途中って事への井上脚本流解釈?
 けれども、最後にヒビキさんを「ヒビキ」と呼び捨てした事で好感度はさらに下がりましたがw
 別にヒビキさんを偶像視してるわけじゃなくて。
 これまで戦いの後に互いに「お疲れ様」と、労働(戦闘)に対してのねぎらいがあった中で、戦闘終了後「お前はいずれ俺のものになる……」とか利己的な事を口走られたら、そりゃぁこちらとしては心中穏やかじゃありませんとも。


 ……うーむ。物の見事に京介(井上敏樹)にやられて響鬼をきちんと見れてない……。気にしすぎて素直に見れてねぇなぁ(笑)。


 次回は鍛えシーンも入るみたいなんで、もうちょっと素直に見てみようと思います。